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婚活心理学
なぜ、ふたりで生きるのか──神なき時代の愛とパートナーシップをめぐって 婚活心理学Vol.14
【結婚しなくてもいい時代に、なぜ私たちは「ふたりで生きる」ことを望むのか──本稿は、ユングやフロム、現代哲学、Z世代の感性を手がかりに、パートナーシップの意味をあらためて問う試みです。恋愛の自由がもたらした孤独、制度を超えた共鳴、文化や歴史が形づくる“愛の輪郭”をひもときながら、「ともに問い続ける関係性」の価値を静かに掘り下げていきます。パンデミックのさなか、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の劇中歌「民衆の歌」が期せずして響き合ったように、関係とは希望の再構築でもある。変化と不安の時代にこそ、”ふたりで生きる”ことの哲学があらたな光を帯び始めているのです。】
【内容】
- はじめに
- 第1章:文化と心理のレンズで読み直すパートナーシップ
- 第2章:自由の果ての孤独──「誰ともつながらない自由」との対峙
- 第3章:契約から共鳴へ──制度の外側で響き合うふたりのかたち
- 第4章:神なき時代の聖域──意味を取り戻す“ふたり”という祈り
- 第5章:なぜ、人生にパートナーが必要なのか?──自己変容としての関係性
- 第6章:Z世代が愛を語るとき──怒り、孤独、そして再構築の風景
- 第7章:ふたりで築く小さな共和制──デタッチメントを超えて”関与という勇気”を
はじめに
なぜ、ふたりで生きるのか。
その問いは、かつて当たり前すぎて、語る必要すらなかったのかもしれません。
けれど今、時代は静かに変わりました。恋愛は面倒、結婚はリスク──そんな言葉が日常会話に紛れ込むようになりました。
出生率の低下、人口減少という統計の向こうにあるのは、ひとりひとりの「つながり」への迷いやためらいです。誰かと生きることに、かつてのような希望や意義を見出しづらくなっている。そう感じている人も少なくないでしょう。
けれど私は思います。ふたりで生きるという選択は、ただの制度や慣習ではなく、人間という存在が長い時間をかけて育んできた、祈りのかたちのひとつではなかったか、と。
神なき時代、そしてあらゆる価値が揺らぐいま。神は死に、そして今や愛までも死に絶えようとしている現代だからこそ、私たちはもう一度、「パートナーシップとは何か」を問い直さなければならないのです。
ユングの深層心理学、現代哲学、Z世代の感性、そして婚活という実践の現場──それらを往復しながら、ここでは「ふたりで生きる」ことの意味を、もう一度ひらき直していきたいと思います。
すなわち、これまでのパートナーシップ概念そのものが、いま静かに揺さぶられているのです。
昭和的な「役割分担」と「我慢と責任」「自己犠牲」によって成り立っていた結婚観が崩れようとしている今、パートナーシップは不要になったのではありません。むしろ今こそ、パートナーシップ概念のバージョンアップが求められているのです。
ハラスメントという言葉が鋭く細分化され、日常の言動も再検討される時代。個と個がどうつながるかという基盤が揺らいでいるからこそ、「ふたりで生きる」という営みを再構築する必要があります。
ユング心理学の観点から言えば、私たちはそれぞれ“アニマ(内なる女性性)”や“アニムス(内なる男性性)”を抱えており、外のパートナーを通じてそれらを統合していくプロセスを辿ります。パートナーとは、自己の心の深層と向き合うための鏡でもあるのです。
第1章:文化と心理のレンズで読み直すパートナーシップ
愛や結婚のかたちは、普遍のようでいて、実は文化や歴史のフィルターを通して日々変化しています。何を愛と呼び、誰と共に生きるのか──その輪郭は、社会のかたちや人間観の変容と密接に結びついています。
西洋においては、近代に入って「恋愛してから結婚する」というスタイルが浸透しました。それは自由の象徴であると同時に、“個人”という存在が重んじられた結果でもあります。特にプロテスタント文化を背景とする国々では、神と個人の直接的な関係が重視されるように、人と人の関係もまた契約ではなく、選び取るものとして再定義されていきました。
その一方で、ラテン文化圏やカトリック的な伝統を持つ国々では、結婚が社会や家族の単位として機能し続ける傾向が強く、個人よりも共同体が先に立つ構造が根強く残っています。つまり、“恋愛と結婚の接続のされ方”は、文化的土壌に応じて異なる発展を遂げているのです。
そして今、グローバル化が進み、価値観の境界が溶けはじめるこの時代。私たちは多様な文化の愛のかたちに触れながら、無意識のうちに「自分たちはどのように共に生きたいのか」を、再定義せざるを得なくなっています。
ユング心理学の言葉を借りるなら、文化とは集合的無意識の表現であり、その中には“どのように社会とつながるか”という問いが深く刻まれています。
私たちが今あらためて問うべきは、「この文化的・心理的背景のなかで、自分自身はどんなパートナーシップを望んでいるのか」。
それは単なる恋愛観の違いではなく、世界との関わり方そのものに関わる、深くて静かな根源的な問いなのです。
第2章:自由の果ての孤独──「誰ともつながらない自由」との対峙
自由とは祝福であると同時に、孤独の扉でもあります。
18世紀の啓蒙思想、19世紀の市民革命や産業化によって、西洋社会では「恋愛の自由」が市民の権利として確立されていきました。恋愛による配偶者の選択は、かつての家制度や宗教的規範から人々を解放しました。そしてその価値観は、20世紀以降の日本にも波及し、「恋をしてから結婚する」というスタイルが徐々に定着していきます。
この恋愛観の普及に最も大きく貢献したのは、大衆メディア──とくに映画、テレビドラマ、少女漫画、そして結婚情報誌などの存在でした。なかでも1970〜80年代の“トレンディドラマ”やユーミンこと松任谷由実の音楽は、恋をすることの美しさと孤独の陶酔を、都市の風景に重ねながら描き出し、「恋をして生きること」自体を人生の目標のように浸透させていきました。
しかし自由には、常に代償がついてまわります。
恋愛も結婚も「しなくてもいい」とされる現代において、多くの人が「誰ともつながらない自由」と引き換えに、深い孤独と向き合うことになりました。
たとえば、NHK放送文化研究所の『恋愛と孤独に関する調査』(2022年)によれば、「一人暮らしの30代女性の約40%が“日常的に誰とも深い会話をしない孤独感”を感じている」といいます。恋愛や結婚の自由を手にした今もなお、人はやはり「語りかける相手」や「心を預ける場」を必要としているのです。
自由とは、自分の人生を自分で選べるという喜び。そして同時に、誰のせいにもできない寂しさをもたらすもの。
だからこそ、私たちは問い直さなければなりません。自由の果てに待つのは、ほんとうに孤独だけなのか?
ふたりで生きることの意味とは、自由を捨てることではなく、誰かと“自由に関与する”という、もうひとつの勇気ではないか──その静かな問いが、いま改めて私たちの内側で灯りはじめているのです。
第3章:契約から共鳴へ──制度の外側で響き合うふたりのかたち
現代では、法律婚、事実婚、同性婚など、結婚のかたちはますます多様化しています。
けれど、本質的なパートナーシップとは、制度や社会的枠組みの“外側”に宿っているのではないでしょうか。
それは、「あなたがいることで、私は私になれる」という存在の実感。単に日常を共有するということではなく、ふたりの“異なる在り方”が響き合い、ぶつかり合いながらも、やがて新たなかたちへと生成されていくような関係。
ユング心理学で言う“個性化”──より本来的な自己へと向かう道のりにおいて、パートナーとは、魂の旅路に寄り添う同志のような存在です。
ある60代の男性は、長年連れ添った妻との日々を、私にこう語っていました。
「昔はよく衝突もした。でも、今思うのはね、あのときのやりとりの一つひとつが、私という人間を磨いてくれていたんだなと。もし彼女がいなかったら、私は今の私ではなかった」。
こうした言葉は、心理学セミナーの会場や婚活サポートの現場でも、繰り返し耳にする実感です。関係を通じて自己の言葉を獲得していくプロセス。それは、深い癒しと自己確認の時間でもあるのです。
関係性とは、単に愛情を育てる場所ではありません。それは、互いの未完成性を抱えながら、ともに問い続ける“対話の空間”です。
のちに触れるハンナ・アーレントが語ったように、「人間の自由は他者との対話の中にしか現れない。」そして同じくガダマーは、「異なる視点が交錯することで、新しい意味の地平が開かれる」と言いました。
結婚とは、そのような「解釈し直しの共同体」でもあるのかもしれません。
共鳴とは、同じになることではなく、違いのなかで調和を見出していく勇気なのです。
ふたりで生きるとは、世界の複雑さに抗わず、違いを怖れず、対話を続けていくこと。
制度の内側よりも、むしろその外側で育まれる“静かな共鳴”。そこにこそ、現代におけるパートナーシップの新しい本質が、ひそやかに息づいているのです。
第4章:神なき時代の聖域──意味を取り戻す“ふたり”という祈り
かつて人類は、神々の名のもとに結ばれ、共同体の中で生きてきました。
けれど、科学の発展と合理主義の浸透により、神は遠のき、「個」と「自由」が称揚される時代がやってきました。
グローバル化が進み、世界は物理的には“近く”なったのに、心はどこか“遠く”なってしまった。そんな感覚を覚える人も少なくないでしょう。
富が平等をもたらすという近代の夢も、もはや信じきれなくなった私たち。経済的な成功が心の安寧を保証しないことを、誰もが肌で感じています。
アルゴリズムが感情を予測し、SNSが人間関係を最適化していくなかで、あらためて問われているのは、「つながりとは何か?」という根源的な問いです。
哲学者スピノザは「神とは自然である」と言いました。その汎神論的な視点は、日本人が古くから持つアニミズム的自然観──山や川、風や火、樹々や花々に魂を見出し、敬い続けてきた感性──と静かに共鳴します。
日本文化には、「神は細部に宿る」という美意識があります。苔むす庭に、湯気の立つ茶碗に、朝の陽光に──その一瞬のなかに、永遠を感じる力。そうした感性は、関係性という“見えないもの”を大切にする土壌を育んできたのかもしれません。
ふたりで生きることは、かつて神々や仏が担っていた「信じる力」や「世界に意味を与える力」を、静かに引き受ける営みなのです。
そして、変化が常態となったこの世界においては、固定化された関係よりも、日々“共に問い直し続ける”という柔らかで流動的な関係こそが、最も強靭なのかもしれません。
哲学者ハンナ・アーレントは、人間の自由は“他者とともに語り合うこと”の中にしか実現されないと説きました。関係性とは、正しさの共有ではなく、共に世界を理解しようとする“思考の共在”そのものなのです。
さらに、解釈学者ハンス=ゲオルク・ガダマーは、他者との対話を通じて生まれる“意味の融合”こそが、人が真に理解し合う瞬間だと述べました。
つまり、結婚やパートナーシップとは、あるひとつの真理にたどり着くことではなく、互いの視点を持ち寄り、問いかけを繰り返しながら、新しい地平を編み上げていく営みなのです。
日常の中でただ隣にいるその存在が、私たちの魂を、名もなき祈りのように静かに照らしてくれる。関係性が、ただの機能や役割ではなく、「この世界に生まれてきてよかった」と思わせてくれる実感へと変わるとき、人生はもう一度、意味を取り戻すのです。
第5章:なぜ、人生にパートナーが必要なのか?──自己変容としての関係性
人は、ひとりでも生きていけるかもしれません。
けれど、誰かと共にあるときにだけ開かれる“扉”が、人生には確かに存在しています。
パートナーとは、自己の魂の鏡であり、対話の相手であり、ときに挑戦者であり、そして、無条件に味方してくれる存在です。
ある女性はこんなふうに話していました。「結婚して良かったこと? 自分を言葉にできるようになったことかな。彼は、私がうまく言えないときでも、待ってくれるんです。焦らずに、でも絶対に聞き逃さないでいてくれる」──こうした声は、心理カウンセリングの場でも繰り返し耳にします。
パートナーとの関係を通じて、自分の内面が静かに、しかし確かに言葉を獲得していく。
そのプロセスは、多くの人にとって深い癒しと自己確認の時間でもあるのです。
関係性とは、「ともに問い続ける」ということ。“正解”ではなく、“変わりゆくふたり”を抱きしめながら、未知を選び続ける勇気。
同じ映画を観て、違う感想を持つ。違う景色を見て、似たような涙を流す。その繰り返しが、私たちの中の「自分でも知らなかった自分」を、少しずつ目覚めさせてくれます。
エーリッヒ・フロムは『愛するということ』で、愛を「技術」であり「成熟した自己の発露」と定義しました。
次章で触れるAdoの歌声の中で鳴り響く“怒り”が象徴するように、Z世代は今、誰かにすがる愛でも、犠牲を求める愛でもなく、「自分のままで誰かとつながれる愛」を希求しているように感じます。
愛とは感情を超えて、存在の根底を揺さぶるもの。それは、社会のノイズをかき消すような静かな決意であり、同時に、まだ傷ついている自分を育てていく“革命の技術”でもあるのです。
成熟とは、強さのことではなく、弱さを自覚し、それでも手を伸ばして、誰かに触れようとする勇気のこと。
若い世代が恋愛に慎重になる今だからこそ、「愛とは、心地よさではなく、ともに成長すること」という、古くて新しい真理が、静かに、しかし確かに光を放ち始めているのかもしれません。
それは、心地よさを追い求めるだけの関係ではなく、不安や未熟さを抱えながらも、互いに触れ合い、変わっていこうとする姿勢。安全な場所にとどまるのではなく、共に「問いのなか」にとどまり続ける勇気。
そんな愛のかたちが、いま、あらためてZ世代の心に響いているのではないでしょうか。
「ROCKIN'ON JAPAN」2023.1月号表紙より
第6章:Z世代が愛を語るとき──怒り、孤独、そして再構築の風景
Z世代と呼ばれる若者たちは、生まれたときからSNSがあり、世界と“つながって”いる環境で育ってきました。恋愛も、マッチングアプリやDMで始まり、LINEで関係性が続き、簡単に“ブロック”されて終わる──そんな時代に育った彼らの恋愛観には、繊細さと倫理観が共存しています。
私が思うに、この世代の感情の代弁者とも言えるのが、シンガー・Adoの存在です。
たとえば彼女の楽曲『うっせぇわ』や『踊』には、世間や既存のルールに対する違和感と、それでもなお自分自身を見つけようとする葛藤が鮮烈に描かれています。
Adoの歌詞に込められた“感情の深さ”と“衝動の知性”は、Z世代が恋愛やパートナーシップに求めているもの──すなわち、自立と共鳴、境界と優しさの両立──を象徴しているとも言えるでしょう。
同時に、彼女の歌唱には「怒り」の感情が強く宿っています。それは単なる反抗ではなく、“世界に対する違和感”の表現です。
Z世代の怒りは、社会の矛盾や押しつけ、形式だけが残った古い価値観に向けられています。彼らは「そうしなければならない」と言われることに対して、直感的に問いを投げかけているのです。
その背景にあるのは、“何かを信じた結果、傷つくこと”への深い恐れです。だからこそ、関係性もまた“消費されるもの”として距離をとられてしまうことがある。
Adoの歌が広く共感されるのは、その怒りを“消費することで解消する”という、時代の矛盾を鋭く映し出しているからかもしれません。
哲学者・斎藤幸平は、Z世代の一部に「資本主義を破壊する未来」への直観が芽生え始めていると語ります。過剰な消費社会や気候危機、格差や分断といった現実に対し、Z世代は直感的に「いまあるルールそのものに無理がある」と感じていると。
恋愛やパートナーシップのかたちにも、その感覚は及んでいます。従来の「所有」や「役割」に基づく関係ではなく、もっとしなやかで、対等で、共鳴し合うかたち──それを求める心の動きが、Z世代の感性には息づいているように感じるです。
それでもなお、Z世代の“最大公約数的な感性”には、村上春樹的とでも言うべき「デタッチメント(関与しないこと)」の影が差しています。深く現実に関わることよりも、波風を立てずにすれ違っていくことが、美徳のように語られる。
けれど本当に、それで心は満たされるのでしょうか?
ふたりで生きるということは、傷つかないために関与しないのではなく、揺れながらも触れ続けるという選択です。
問いの中にとどまり続けること。違いを抱きながらも、沈黙を破って言葉を交わすこと。その繰り返しの中でこそ、関係性は深まり、ひとりでは見えなかった風景がひらかれていくのです。
Z世代が「つながりたいのに、つながれない」と感じるその痛みの奥には、まだ希望が宿っています。傷つきながらも、信じようとする力。その小さな祈りのような衝動にこそ、パートナーシップの未来が静かに息づいているのかもしれません。
第7章:ふたりで築く小さな共和制──デタッチメントを超えて”関与という勇気”を
関係性を「選ばない自由」──それが現代の空気感と呼べるのかもしれません。
傷つかないために、関与しない。否定されないために、何者にもならない。
Z世代に限らず、私たち全員が少しずつ、そうしたスタンスに染まりはじめています。
しかし、ふたりで生きるということは、本来そうした空気に抗する“選択”であり、“決断”なのだと思います。
小さな共和制──それは、ふたりだけの世界。ふたりで交わす約束、ふたりで選ぶ言葉、ふたりで築いていく日常。
この共和制では、ルールはふたりで決め、歴史もふたりで書き換え、未来もふたりでつくります。
それは、制度ではなく、“関係”という名の生きた政治体。
ここで必要なのは、愛という名の服従ではなく、自由と尊厳の交換です。対等な他者として互いに“敬意を持ち合う”という、原初的な倫理。
哲学者バタイユは「愛とは、自己の限界の共有である」と語りました。強さではなく、限界を見せ合う勇気。そこにしか生まれない信頼が、ふたりの関係の中で静かに育まれていきます。
さらにいえば、この“ふたりの共和制”は、外の世界が不安定であればあるほど、その灯火としての意味を増します。
思い出されるのは、パンデミックのさなか、医療従事者たちを励ますために、世界中のプロの歌手たちが自主的に集い、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の劇中歌「民衆の歌」を捧げたエピソードです。
画面越しに歌声が重なり合い、その響きは時空を超えて多くの人々の胸を打ちました。あの動画は記録的な再生数を獲得し、孤独のなかにいた人々の心に、静かに火を灯した証しです。
たとえ物理的に離れていても、関与することはできる。声を重ね、思いを重ねることで、私たちは他者のために存在することができる。
そのことを、あの歌は私たちに教えてくれました。グローバル経済の揺らぎ、台湾有事や南海トラフ地震のような国家的・自然的なリスク──この時代において、ひとりでは支えきれない不安が、誰の胸にもあります。
そんなとき、「ふたりで生きること」は、単なる感傷でも、感情の延長でもなく、“関与し合うことの哲学”として再定義されていくのです。
問いましょう──
あなたは、誰と共和国を築きたいですか?
あなたは、その人と、どんな未来を育てたいですか?
この問いに明確な答えを持たなくてもいい。
けれど、その問いに向き合おうとすること。そこにこそ、ふたりで生きる意味のすべてが、宿っているのかもしれません。
【婚活メンター・ひろ】
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